修羅場だらけの人生?ブログ

定職も持たず根無し草のように生きる両親の元に生まれ13歳で自殺を考え始め、16歳からストーカーされ、流れに逆らえず結婚。そして修羅場だらけの人生は本格化した・・・

そろそろ語ろうか、人生を。

  私は 小学5年の後半 小学校のすぐ近くの家に越してきて転校生となりました。
覚えているだけで、四回目の引っ越し家でした。
 一番最初の記憶は2~3歳でしょうか?
片田舎の町の裏通りにある、二階建ての家です。二階に住んでるおねえちゃんの髪の毛
をハサミで切ってしまって 叱られたので、一軒の家に二家族が住んでいたようです。
 父はなにか働いていたようですが、母は私を負ぶって パチンコをしていたり、
薄汚くトイレからアンモニア臭が漂う映画館で 時代劇の映画を見ていたりしてました。
 三才違いの妹の存在は 覚えていないので、まだ産まれてなかったか赤ちゃんだったのでしょう。
 そう言えば、母は母乳の出が良くて 近所の児にも乳をあげていたことを考えると
妹は既に 産まれていたのかもしれません。


 次の家は そこからかなり離れた雑木林の中の葦の原に建つ 掘っ立て小屋でした。
父が建てたのか、元より建っていたものかは 分かりませんが、岩を積み上げてお風呂
(程度の悪い露天風呂)を作ったことは覚えています。そこでは 野菜など作り鶏も豚も飼ってました。父は自転車の荷台に段ボールを括り付け、私と妹を入れあちこち連れていきました。父は酒、煙草もやらず、子煩悩で優しい人でした。私は父親っ子です。
 何しろ、場所が場所だけに 泥棒が入ったこともあり、母が入っているお風呂を覗かれたこともありました。
 以前 私が住んでいた町で大火事が起きた時はよく煙が見渡せたものです。


 三件目に越した家で私は小学校入学しました。ここは生まれた町でしたが、場所は離れていました。
 そして この家も(今で言えばシェアハウス)悪く言えば 間借り生活で、バス 台所
 トイレは共同でした。トイレは家から少し離れており、二つありました。私は家から塀伝いに行ける片方しか使ったことがありませんでしたが、板の床を切り取っただけの「和式便所」は落ちそうな恐怖で大嫌いでした。
 思えば このトイレは近所の人も使っていたようです。 


 家は今迄で一番広かったのですが、環境は良いとは言い難いところでした。同じ間借り人の家族は喧嘩ばかりしていましたし、隣の家はお姉さんがおじいさんと住んでいましたが、家に入ると床が殆ど抜けていましたし、障子は穴だらけでした。


 細い表道を挟んだ家の離れには、結核の若い夫婦らしい二人が住んでおり咳こんでは 鮮やかな血を吐いていました。
家の向こうは広場になっていましたが、刃物を持ったやくざ者らしき男たちが
喧嘩をしていることが何度かあり警察官も来たりしていました。
 いわゆる元祖「オネエ」の姿もチラホラ見受けました。


  父はどこかへ働きに行ったり農家の手伝いをしたり、時には釣りで沢山の小魚やドジョウをバケツに取ってきては食べさせくれ、母は内職をしていましたが たまに中華そばの出前を取ってくれました。少なくとも私達は贅沢ではない範囲で身綺麗にしていたようです。
 近所の人達は皆やさしく親切でした。色んな人が寄せ集まり、肩寄せあって暮らしているという感覚だったようです。
 あばら家のお姉さんの家の煮込み過ぎたふにゃふにゃウドンはとても美味しくて、母に
作ってくれるよう頼んだ覚えがありますし、近くの豆腐屋さんがくれる出来損ないの油揚げはご馳走でした。
  
 私は、体育が嫌いで 図工が得意な少女に育ち 元気に学校へ通い、遊び友達が何人もおり 野や畑 河で遊び暮らしました。
 このころの私のあだ名は「外人」でした。髪はくせ毛でクルクルして 鼻が高かったがらです。これは、生涯のコンプレックスとなりました。


 ここでの生活は、貧しいけれども一番幸せな時期だったと思えます。