修羅場だらけの人生?ブログ

定職も持たず根無し草のように生きる両親の元に生まれ13歳で自殺を考え始め、16歳からストーカーされ、流れに逆らえず結婚。そして修羅場だらけの人生は本格化した・・・

大凶を引いた。

 なんだかんだとあったけど、以外と穏やかに今年も終わりに近づいています。
「結局、良い年だったようね」と珍しく楽観的に傾いた心で 思うのです。
 年末に近づくと テレビでは「厄除け大師」のコマーシャルが流れはじめます。
それをみると、いつもある記憶がよみがえるのです。


 その頃 私は地獄をはいずり廻っていました。
夫は 愛人のところと自宅を毎日行き来しており、私の気持ちはすっかり冷え切っていました。
 どうでもよかったのです。私を手放してくれさえすれば・・私は自由になりたかっただけだけで 夫に戻って欲しい気持ちなど全くなかったのです。
 なのに 愚かな夫は、愛人を捨てられず しかも日毎に気持ちが離れてゆく私に執着しました。その挙句の暴力は、日々凄まじさを増していったのです。
 しらふの夫の目つきが サッと変わると何時間でも 気がすむまで暴力を振るい続けました。
 服も破かれ、近所の目もあるのに 外へ引き釣り出されました。最初は手で、次は木刀で、真剣を胸に当てられた事もありました。ピアスは吹っ飛び、あばら骨を骨折しました。青あざなど日常茶飯事、爪で深く引っかかれた傷跡もありました。深い山道に置き去りにされた事もあります。痛みより何より辛かったのは、強制的な性行為でした。


 そんな私の唯一の安息は、夫が愛人宅へ行っている時間でした。愛人は車で一時間以上かかる所に住んで居ました。最初は車で通っていた夫ですが、駐車違反で警察に通報されてから 電車で通うようになりました。さすが住居のあった駅からでは 人目が気になったようで、私が隣町の駅まで 送り迎えをする という変な状況になってゆきました。
 変でも、私には良かったのです。
とにかく 彼がいなければ、私は安全で自由だからです。毎夜でも大歓迎です。
 あほらしい事に、彼は 愛人の住む街の駅に着くと、私の処に電話をかけてきて私が家にいることを確認しました。
 私は 確認の電話に出ると、後は朝までの自由時間を満喫しました。徐々に最終電車で帰ってくるようになり また暴力を受け、最終的に本当の自由を求め家を出ることになるのですが・・・
 そんな時期です。愛人との旅行で夫は留守でした。
私は 一人で車で出かけました。目的もなく「厄除け」で有名な寺に行き、偶然おみくじを引いたところ なんと「大凶」がでました。
 そこに何て書いてあったか までは覚えていません。が、まさに私のその時の状況を言い当てていたとびっくりしたのです。
 それから 私は絶対におみくじを引かなくなりました。
年末になり「厄除け大師」のコマーシャルを見る度、そのことがいつも蘇るのです。
そして「色々あるけど、少なくともあの頃よりは幸せだ」と思うのです。

コンプレックスと母

 相変わらず 「食べては寝る・寝ては食べる」の自堕落な生活が続いています。
こうまで、空腹感が満たされないのは 身体の問題ではなく、心が満たされないためでは と考えて来ます。
 テンションは高め推移していますし、行動的です。全く謎です。


 久しぶりに、妹に電話しました。
妹は、母の介護でイライラして不機嫌でした。父の亡き後 田舎の借家に一人で置いておくことも出来ず、妹が母を引き取り同居を始めてから結構な年月が経ちます。
 妹が 母を面倒見ることは、姉妹の間では 暗黙の了解でした。条件が揃っていた というべきか、私は母が大嫌いで一日とて 一緒に暮らすことができないからです。
 では 妹が母を好きかといえば、実は大嫌いだということを 同居を始めてから知りました。妹が要領良く 母を利用していたことで 仲が良いと、 私が勝手に思い込んでいたようです。私は、母に甘えた記憶がありません。高校までは 出してもらいましたが、家が貧しいので 食費・寮費・学費すべて免除の学校に進みました。


 妹は 学費・住居費全て親負担の美術系の学校に進み、アパレル関係の仕事に一時ついて結婚・ 三人の子供を産み 早々離婚、養育費と母の援助を受けながら子育てし、その後は適当に数時間のパート勤務をして暮らす、自称「プー生活」でここまできました。
 母に多少なりとも 年金がなかったら、とうに姥捨て状態でしょう。
私と妹は、仲が良い悪いというより 姉妹という感覚がありません。実に淡々としており、友人に近い感じですか・・・でも姉妹に「大嫌い」と言われる母って何なんでしょう。私の理由は、はっきりしています。
 母は 実に明確に私と妹を差別して育てました。
妹は 少し知能指数が高く、華やかな顔立ちの美人でした。アパレル業界にいた頃は、道行く人が振り返ったそうです。妹は天才型で、私は努力型・顔立ちも凡庸だったのでしょう。性格も 妹は奔放で外交的、私は内向的でした。
 すべてにおいて、母は妹を比較の対象にして 私にコンプレックスをしっかり根づかせたのです。一度根付いたコンプレックスは、生涯私の性格に影響してゆきます。


 妹は 母を「俗物でバカ」と嫌悪しつつ、毎日ストレスを抱えながら介護しています。
認知機能もかなり低下してるとのこと。ずっと会っていない私の事など既に忘れているでしょう。
 でもね お母さん、あなたの預金も底をつき、「プー生活」で余裕もない妹に変わり 死後田舎の墓に入れる役目を担うのは、あなたが 散々馬鹿にして侮辱して育てた私なんですよ。

何?!この変化は・・

 しばらく前 気分は最悪でした。
抑うつ状態で、動くのも億劫 口をついて出る言葉は「面倒くさい・・」でした。
 何もしたくないので、ベットに横たわり過ごしました。こういう時は大体睡眠の質も
悪く、同じ量の眠剤を飲んでも 早朝覚醒してしまい、追加眠剤をするはめになり それでもなお 早く目覚めてしまいます。
 低血圧でもあり、とことん眠りに執着する私としては せめて9時か9時半までは寝ていたいし、10時過ぎまで眠れたらラッキーです。
 何も予定が無い と言うよりも殆ど予定が無いのが私の生活なので、早起きしてしまうと 一日が長すぎるからです。
 調子が悪いと、昼寝も寝付けないので 頭からすっぽりと布団をかぶり、つらつらと暗く重く痛い過去を振り返ったり、この先どこまで続くか解らない未来に、悲観的かつ暗澹たる思いを馳せてみたりして過ごす毎日になっていました。
 当然、空腹を感じることもなくなり、味気なくカロリーメイトをかじるようなざまになり、プチ拒食症状態でした。


 なぜこんなに落ち込んでしまったのでしょうか?
原因は 何もないのです。強いていえば、旅行後の疲労が残った から?
 そして その落ち込みはまた、何のキッカケもなく「躁状態」に変化しました。
突然元気になった私は、猛烈に食べ始めました。
 あれも これも次々と食べたいものが出てきて、買い込んでは食べ 作っては食べました。今日も 今日とて、一人ランチのはしごです。
 今度は 過食に入りました。
そして、反動は睡眠にもきました。
眠くて 眠くてたまらなくなったのです。
 夜は基本の眠剤を内服して、通常より早めの就寝・そして朝はぐっすり9時半起き・昼間はお腹いっぱいになると、すぐ眠くなり昼寝をするという欲望に忠実な生活になっていったのです。


 ここまで 両極端にぶれると、自分でもあきれ返ります。呆れて戸惑うけれど、思うのです。
 「おひとりさまがなんだ?」私が おひとりさまになる頃は、色々なサービスも充実してくるでしょう。
 「行方の知れない子供が どうしたって?」二十歳過ぎれば自己責任、親の保護の時期は過ぎたでしょう。
 「私の居所を知ったDV男が 包丁を持って押しかける?」今度こそ警察に突き出してあげるから覚悟しなさい。
 取り敢えず 衣・食・住は大丈夫。幾多の修羅場を抜けてきた私なら大丈夫。
根拠のない自信は、いつまで私を支えてくれるのでしょう?