修羅場だらけの人生?ブログ

定職も持たず根無し草のように生きる両親の元に生まれ13歳で自殺を考え始め、16歳からストーカーされ、流れに逆らえず結婚。そして修羅場だらけの人生は本格化した・・・

旅は贅沢、でも愚痴りたい。

日、月と旅行に行ってきました。
 同居人は とても旅好きです。以前は事業に専念しており 旅に行く余裕が持てなかっためか、今は高齢といわれる年齢となり「行ける時に出かけたい」という思いが強いのか
ちょっとした旅が、月いちペースで入ります。
 先月は みなとみらいの夜景を見に行きました。
来月は 京都・大阪旅行の予定が、入っています。既に来年の2月まで予定が入っている状態です。
 海・夜景・高層階のホテルが、彼の好きなキーワードです。
今回は ほぼ別荘化している、馴染みのホテルに行きました。
美味しい手打ち蕎麦を食べ、地の果物や野菜を買い込み ホテルに着くとひたすら
まったりと過ごします。
 とにかく「今夜 何食べる?」という会話から始まる現実から離れる解放感が好きなようです。
 
 確かに、旅は贅沢だとは思います。
非日常的体験です。もちろんお金もかかります。
 でも・・・ です。
私は 疲労困憊してしまうのです。毎月の旅に備え体調管理しているようなものです。
 日頃 私は、9時半ひどい時は10時過ぎまで眠っています。これが元凶ですが・・・
食事は1日2食しか食べません。朝(いえ昼?)はバナナ・飲むヨーグルト・青汁・豆乳
食べてもカロリーメイト2本と多量のサプリメントです。
 夕食は 自分の食べたいものを、しっかり食べますが 基本炭水化物抜きです。
ランチしたときは、夕食抜きです。


 同居人はアルコールをこよなく愛する人なので、旅のご馳走は私が大部分を担う事になります。いくら美味しくとも 腹も身のうち、そんなに食べられるものではありません。
 そのうえ、旅は早起きが必然です。日頃寝ている時間に行動し体内時計が狂い始め
そして、不眠に陥ります。
私は睡眠薬を いつもより多めに設定しますが 全く眠れません。
刻々と過ぎてゆく時間と 同居人の寝息に焦りが生じ、睡眠薬をどんどん追加してゆき
いつの間にか眠り、早々に目覚ましが鳴り響くのです。
 ここから先は地獄です。睡眠薬健忘で、朝食を何食べたのかも忘れ 車中での爆睡となり、帰宅後はもちろんベットの中です。便秘になったお腹をかかえながら です。


 こんな私に呆れもせず 毎回せっせと旅に連れて行く彼の寛容さに驚いてしまうのです。自分の欲望に忠実で 哀れな私に無関心なだけなのかもしれません。
 めげずに 旅番組を見ては「今度はあそこがいい!」とかメモっている彼を横目に、私は自分の運命を呪いそうになるのです。元夫も旅好きだったから です。


 さあ 来月の旅に向け 頑張りましょう。

そろそろ語ろうか、人生を。

  私は 小学5年の後半 小学校のすぐ近くの家に越してきて転校生となりました。
覚えているだけで、四回目の引っ越し家でした。
 一番最初の記憶は2~3歳でしょうか?
片田舎の町の裏通りにある、二階建ての家です。二階に住んでるおねえちゃんの髪の毛
をハサミで切ってしまって 叱られたので、一軒の家に二家族が住んでいたようです。
 父はなにか働いていたようですが、母は私を負ぶって パチンコをしていたり、
薄汚くトイレからアンモニア臭が漂う映画館で 時代劇の映画を見ていたりしてました。
 三才違いの妹の存在は 覚えていないので、まだ産まれてなかったか赤ちゃんだったのでしょう。
 そう言えば、母は母乳の出が良くて 近所の児にも乳をあげていたことを考えると
妹は既に 産まれていたのかもしれません。


 次の家は そこからかなり離れた雑木林の中の葦の原に建つ 掘っ立て小屋でした。
父が建てたのか、元より建っていたものかは 分かりませんが、岩を積み上げてお風呂
(程度の悪い露天風呂)を作ったことは覚えています。そこでは 野菜など作り鶏も豚も飼ってました。父は自転車の荷台に段ボールを括り付け、私と妹を入れあちこち連れていきました。父は酒、煙草もやらず、子煩悩で優しい人でした。私は父親っ子です。
 何しろ、場所が場所だけに 泥棒が入ったこともあり、母が入っているお風呂を覗かれたこともありました。
 以前 私が住んでいた町で大火事が起きた時はよく煙が見渡せたものです。


 三件目に越した家で私は小学校入学しました。ここは生まれた町でしたが、場所は離れていました。
 そして この家も(今で言えばシェアハウス)悪く言えば 間借り生活で、バス 台所
 トイレは共同でした。トイレは家から少し離れており、二つありました。私は家から塀伝いに行ける片方しか使ったことがありませんでしたが、板の床を切り取っただけの「和式便所」は落ちそうな恐怖で大嫌いでした。
 思えば このトイレは近所の人も使っていたようです。 


 家は今迄で一番広かったのですが、環境は良いとは言い難いところでした。同じ間借り人の家族は喧嘩ばかりしていましたし、隣の家はお姉さんがおじいさんと住んでいましたが、家に入ると床が殆ど抜けていましたし、障子は穴だらけでした。


 細い表道を挟んだ家の離れには、結核の若い夫婦らしい二人が住んでおり咳こんでは 鮮やかな血を吐いていました。
家の向こうは広場になっていましたが、刃物を持ったやくざ者らしき男たちが
喧嘩をしていることが何度かあり警察官も来たりしていました。
 いわゆる元祖「オネエ」の姿もチラホラ見受けました。


  父はどこかへ働きに行ったり農家の手伝いをしたり、時には釣りで沢山の小魚やドジョウをバケツに取ってきては食べさせくれ、母は内職をしていましたが たまに中華そばの出前を取ってくれました。少なくとも私達は贅沢ではない範囲で身綺麗にしていたようです。
 近所の人達は皆やさしく親切でした。色んな人が寄せ集まり、肩寄せあって暮らしているという感覚だったようです。
 あばら家のお姉さんの家の煮込み過ぎたふにゃふにゃウドンはとても美味しくて、母に
作ってくれるよう頼んだ覚えがありますし、近くの豆腐屋さんがくれる出来損ないの油揚げはご馳走でした。
  
 私は、体育が嫌いで 図工が得意な少女に育ち 元気に学校へ通い、遊び友達が何人もおり 野や畑 河で遊び暮らしました。
 このころの私のあだ名は「外人」でした。髪はくせ毛でクルクルして 鼻が高かったがらです。これは、生涯のコンプレックスとなりました。


 ここでの生活は、貧しいけれども一番幸せな時期だったと思えます。


 













 


今更 虚弱体質ってねぇ?!

 ダリ展に行ってからの疲労から まだ抜け出せていません。
全く 気力も食欲も出ません。
 夜は12時間眠り、昨日は昼も5時間寝て過ごしていました。


 人生も後半の坂を下っているというのに、寝て時間を過ごすという非生産的な
生活をしていて どうするというのでしょう?
 そして今日も、お布団に入りたい誘惑にかられているのです。
同居人は慣れっこになっております。
「〇〇ちゃんに 具合の良い時があるのか?寝ればよい。」と言います。


 そうですね。
鳥籠のなかの鳥が 飛び跳ねていようが、歌っていようが、眠っていようが
飼い主はどうでも良いことなのかもしれません。
 死んでしまうのは、多少問題でしょうが。


 早く回復しなければ、すぐ次回の旅行のお伴の仕事がきてしまいます。
焦りはあるのですが、なにせ身体がいうことを聞いてくれません。
 「うつ病」というのも一因かもしれません。
落ちる時は、とことん落ちてしまうようです。


 遠い昔 夢見る乙女で文学少女だった私は、透き通るような白い肌を持ち
華奢な少女にあこがれていました。
 例えば 朝礼で貧血を起こしフラフラと倒れるような少女
白樺林の中のサナトリウムにいる、結核を患った少女
心臓が悪く サンルームのロッキングチェアーで過ごす深窓の令嬢
 とか でしょうか?
片田舎の町に生まれ、貧しく いたって健康で華奢とは縁遠い私は、虚弱体質で美しく
血管が蒼く浮き出て見えるような 虚弱な少女になりたかったのです。


 なのに、今更「虚弱体質なおばさん」になっても 喜べません。
皮肉だし 滑稽なだけではありませんか?!


 記事を書くたび思います。
結局、「病」の話から抜け出せてない!!!
 さあ、元気を出しましょう。
今日 昼寝をしてから ね。