修羅場だらけの人生?ブログ

定職も持たず根無し草のように生きる両親の元に生まれ13歳で自殺を考え始め、16歳からストーカーされ、流れに逆らえず結婚。そして修羅場だらけの人生は本格化した・・・

疲れた・・・

 二日前、友人と 乃木坂へ「ダリ展」を観に行きました。
ダリは学生の頃「燃えるキリン」の写真を見てから、魅了されていました。
 美術展に行くことなど、本当に長い年月思いつきませんでした。
けれども、先月たまたま、友人と旅行した時 駅で「ダリ展」の広告を見たのがきっかけで、即約束が決定したのです。


 いつもより 少し早起きして、バスに乗り 電車を乗り継ぎ途中でランチをしました。
「スペイン料理を食べて、スペインのダリを観るってお洒落でしょ?」 と彼女は言いました。
 いつも、洒落たランチを設定してくれるのは彼女です。
「超」が付く 方向音痴の私は、彼女に連れられて都内の様々なところに連れて行って
もらいます。
 ランチ後 更に地下鉄を乗り継ぎ、やっと乃木坂の美術館に着き 作品を見て回りました。想像していた以上に広い空間に、たくさんの作品があり たくさんの人もいました。
 見終わり、ポストカードやマグネットなどを買い込むと 既に日は暮れていました。
とても楽しく、充実した一日でした。


 しかし、疲れがどっと出て昨日 今日と私はダウン状態です。
まったく 情けない限りです。
 歳のせいか、日頃の怠慢な日常のせいか・・・いえ 多分日頃の怠慢が原因なのでしょう。多分 友人はダウンしてはいないでしょうから。
彼女と私は 幼馴染みで同い年です。
 彼女は主婦であり 掃除 洗濯をして家族の食事を用意します。猫3匹の世話もです。
更に、週3日仕事をこなし ボランティアをして、習い事もして 好きなミュージシャン
の「追っかけ」で飛び歩く事もあります。
 私から見れば、まさに スーパーウーマンなのです。


 私の日常は 怠慢そのものです。
掃除、買い物、調理は同居人の仕事です。さすがに 洗濯はします。
 眠りたいだけ眠り(私の眠りに対する執着については後日書きますが)
更に、昼寝もし放題です。
 結婚生活の中で、私は長いこと 主婦と事業を兼ねてしていました。
料理学校に通い、調理は得意で 色々なお菓子作りもしていました。
結果として 不出来でしたが、子育てもしたのです。


 人間はここまで変われるものなのですね?!
自分で呆れ果てる次第です。だからって どうしようもないのですが・・・


 とにかく 疲れた。
とても 疲れてしまった。
 やはり「籠の鳥」はいきなり飛び出してはいけないようです。
 


そして、同居人となる。

 私のパートナー(籠の鳥の飼い主)には、当然夫人がいました。
2~3度夫人を見かけたことがあります。
黒系の服を着た 大人の綺麗な女性でした。
 
 「籠の鳥」生活を始めた頃は私も職業を持っていました。彼も仕事を続ける事に
賛成でした。遊んで生活を送り、彼を待つだけの日常は退屈すぎます。
  
 まもなく 私の存在は夫人の知るところとなりました。
いくら夫婦生活は既に 破綻し寝室を別にして、事業のパートナーと化していても
ほぼ毎日のように、妾宅に泊り朝帰りを繰り返す自分の夫の変化に 気がつかない
程、女の感は鈍くないものでしょう。
 私の名前、年齢、住所、勤め先まですっかりバレてしまったのです。
私は夫人に対して、嫉妬心も負い目も感じてはいませんでした。
けれど、すべてが知れた時 恐怖心を持ちました。
 夫人が私の家を訪れ、激怒して怒鳴り散らすのではないか という恐怖心でした。
 
けれども 何事もおこりませんでした。
夫人は黙認したようでした。賢い女性だったのかも、寛容な人だったのかもしれません。
しかし、気分が良い出来事ではなかったでしょう。
 私たちは、密かに そしてその割に大胆に 地元で食事やショッピングしたり、 旅にでたりして暮らしをつづけました。


 そんな暮らしが続いたある日、もう八年程前になるでしょうか・・・
夫人が癌の宣告をうけ、闘病の果て亡くなりました。
悲しく辛い出来事でした。夫人に悪感情をもっていなかった私は、ただただ 申し訳
ない と思いました。亡くなるその瞬間まで、私を恨んでいたのではないかと思うからです。
 
 その後一人身となってしまった彼は、娘の家々を転々とした挙句 
本宅を空き家にして、私のマンションに入り込み「同居人」となりました。
その後、職場の人間関係に嫌気がさしていた私は 仕事を辞め家に入りました。
 私たちは、ふつうの夫婦のように たまに ささやかな諍いを繰り返したりしながら
総じて仲良く暮らしています。
 ただ、私たちは同等になることはできません。
あくまで、彼は金銭で私を養い、私は飼われているペットの鳥なのです。


 「生き別れ」は悪い思い出が増してゆき、「死別」は良い思い出が増すようです。
同居人は携帯の待ち受けに、亡くなる数日前の夫人の写真を貼り 戒名を書いた紙を大事に持ち歩いています。
老いてきたせいか、「おかあちゃんが・・」という発言が多くなってきています。
 仕方ないな と思います。
亡くなってしまった人とは、競えませんから。


 私には、この生活が合っているようです。
籠の扉をあけ放たれたとしたら、私は生きる糧を探すすべさえ解らず途方にくれて
しまうかもしれません。
 



バックグラウンド・その2(籠の鳥生活の始まり)

近頃 私は心身共に健全だと思う。
 記事を書く毎に、自分の中の澱みたいなものが 浄化され心が軽くなるような気がする
のです。
だから、これからも「自分の為の・自分による・自分のこと」を書いてゆこうと思うのです。


 人生には、分かれ道があり 時には急カーブもあるようです。
私の「籠の鳥生活」の始まりも またそのようでした。
 パートナーとの接点は、たったの一週間でした。
その中で 事務的会話や挨拶程度の接触は、たぶん合計1時間にも満たないでしょう。
でも、最後の日に彼は、私を食事に誘ってくれたのです。
 一人暮らしを始めてから 私は慎重でした。
それどころか DV夫のせいで、男に不信感さえ覚えていました。
 なのに、連絡先を教えてしまいました。
彼が既に還暦を過ぎており、包容力に溢れた紳士に見えたのかもしれないし、
私はさみしかったのかもしれません。


 10日程過ぎ、私たちはドライブをして お蕎麦を食べ 何故かパチンコをして
夕食も彼の行きつけの寿司屋で済ませました。
 その後 突然、「面倒を見たい」と申し出がありました。
私は もちろん戸惑い、驚きました。
 それでも まるで計画書でもあるような流れに乗っていったのです。
ひとの持ち物に 手を出すことは御法度だとはわかっていたのですが・・・


 それからの 彼の動きは非常に素早いものです。手慣れていたのかもしれません。
数か月後から、私の家で夜を過ごし朝帰りになりました。
 その一方で、懇意の不動産業者に依頼し、私の住居を探し出しました。
住居が見つかると、ブレーンを集め 私の好みにリフォームさせました。


 私はワンルームの安アパートに住みながら働いていましたが、DV夫の追跡を
恐れ 住民届も出せず、電話以外の公共料金や郵便物は偽名で受け取っている
有様でした。子供にも住所を教えていませんでした。
 そんな私のために、住所を二転三転して住民届を出し 私は自分名義の中古マンション
に引っ越しをすることになったのです。


 こうして私は「籠の鳥生活」を送るようになり、「待つ女」になっていったのです。